◆ 酒造り歴50年 「来年は辞めたぜや」と、酒造りのシーズンが終わりに近づくたびに、そう言い残して能登に帰ってきます。ですが、酒造りのキャリアも長くなり、今年で50年行ったことになりました。
現在(※インタビュー当時)行っている2つの酒蔵のうちのひとつ山路酒造さんは、以前は他の杜氏が行っていたところでしたが、「代わりに行ってくれ」と頼まれて行くことになりました。「40日間くらいなら掛け持ちでもできる」と思い、手伝いに行くようになりました。
◆ 杜氏歴は18年 杜氏になってから18年ほどになります。京都で6年、滋賀県で6年間。
杜氏の印象として、最初に行った能登の数馬酒造では、杜氏は背広を着て杜氏室にいて、でんと構えているのを見ていましたから、「いやはや杜氏というのは偉い者だ」と思いましたね。その当時は、それぞれの工程にスタッフが数名ずついました。
1年で大体のことが分かったので、「酒造りは、もういいや」なんて言っていたこともあったのですが、2年目から滋賀県に行き、そこに30数年も長くいることになりました。 |
◆ 滋賀近江、能登輪島、京都丹後の酒蔵へ
滋賀で行ったのは、近江八幡の西勝酒造という酒蔵で、3,000石くらい作っていたところでした。今はもう止めてしまわれましたが、月桂冠一本でした。
そこには32年間いて、その間の10年間ほどは、杜氏である後野助二さんと一緒に仕事をさせてもらいました。
その後、能登杜氏組合の組合長も務めた名杜氏の三盃幸一さんに言われて、能登の輪島の谷川酒造に行くことになりました。谷川酒造には6年いて、次は京都の丹後の「磯娘」に行きました。そこにも6年いました。そこの酒蔵の二男が東京農大醸造科を出てきたばかりで、一緒に酒造りを手伝ってもらいながら、勉強してもらいました。 |
◆ 杜氏は減った
かつては珠洲の上戸では、集落のほとんどの男が酒造りに出ていて、40人も杜氏がいた時代があります。宝立の地区には60人いました。松波の地区では80人と言っていました。しかし、おらんようになりました。
技術を覚えてくれて、掛け持ちするようになれば、それなりの所得になるのだが、それまで我慢することができないとなると、生活を考えると現実的に厳しいのだろう。
冬になって酒蔵に入ってしまうと、拘束時間が長く、遊びにも行かれないので、若い間は特にしんどいのでしょう。
大きい酒蔵は、出稼ぎの杜氏は少なくなり、年間雇用が増えています。 |
◆ 杜氏の仕事は、身体の負担は楽 酒造りは、仕込んでしまえば、その後は観ているだけみたいなところがあるので、身体としては楽だ。スタッフがいれば、役割分担で仕事をすることになるので、杜氏は指示監督が役割になります。
小さい酒蔵は、休みがあるようで無い所があるので大変な面と、逆に小回りがきくので自由な面と、両面あります。たとえば講習会に参加した時も、仕事をしたとして講習手当をくれています。また、土日などは従業員も休みで、誰も会社にいないので一人で蔵にいることになるのですが、それも気楽でよい。
◆ 酒蔵見学のできる蔵 私の行っている酒蔵では、酒蔵見学を受け付けています。入口に殺菌剤を入れた箱を置いておいて、工場見学の人には、そこに靴を浸けてから酒蔵に入ってもらっています。その上で、手を洗ってもらいます。
垂れ口で酒の味をみるのは、杜氏だけに認められることで、他の人にさせてはいけないことです。
酒蔵で働く者にとっては、蔵入りしている時は、醗酵食品である納豆や、また柑橘類も良くないとされています。禁止している酒蔵もあるくらいです。
酒蔵見学は、お客様と直接出会う貴重な機会なので、杜氏が説明に出る事もあります。 |
(インタビュー/2011年3月) |
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