◆ 人間修養のつもりで始めた酒造りだった 今でこそ杜氏を務めていますが、実は最初は酒づくりには、さして興味がなかったんです。酒も飲めません。今でも、年に1合も飲まないです。農業と林業をやっていて、青年団活動やスポーツなどをやっていた中で、「人間を鍛えるために、修行してこよう」と考えたんです。酒造りは、寒さの厳しい冬の間、夜も寝ないで頑張るという封建的な仕事。だから、「そういうところに行って修行してこよう」と出かけました。それが、23歳からだと思いますから、業界に入ったのは遅かった。
2〜3年で辞めるつもりが、滋賀県の川島という酒屋に4年間行きました。そのときで一旦辞めましたが、肝臓を悪くして入院し、1月に退院してきたら、「来てほしい」というところが出てきて、「一力」という小さな酒蔵に手伝いに行きました。
本格的にやってみることにしたのは、その後、杜氏組合の副会長をしていた下田さんから、「酒造りをせんか?」と誘われてからです。それからは、毎年出かけるようになりました。
◆ 杜氏になって、やおら50年 杜氏になったのは、昭和37年に滋賀県の吉田酒造でのこと。それまでは、金沢の百万石や、富山の福光の前田さんなどに行っていました。昭和49年から、奥能登の酒蔵、宗玄に入りました。26年間いて、67歳で定年になりました。
それで、一冬の間はやめていましたが、京都の伏見の黄桜さんから「是非、来て指導してほしい」と誘っていただきました。全国の鑑評会に入らなくなっていて、「全国に入るような指導をしてほしい」と言われました。そこで、「2年間は黄桜の造り方を教えてほしい」と頼んで勉強させてもらいました。2年目から手伝い始め、3年目からは、杜氏として仕事をさせていただきました。
最初は、3〜4年という条件だったのが、そのうち「できるだけ杜氏をして欲しい」と言われるようになりました。でも、その当時すでに70歳になっていましたので、「辞めさせて欲しい」とお願いしましたが、結局6年いました。 |
◆ 日本一小さな酒蔵、松井酒造 今は、京都の松井酒造に行っています。日本で一番小さい造り酒屋です。そこは、長年酒づくりを止めていたんですが、昨年復活させたんです。しかし、なにぶん都市部ですから、広い地面はありません。マンションの1階を酒蔵にしています。そんな中、杜氏のための部屋も立派なものが用意されていました。
小さなタンクを6本造りました。帰ってくるときも、「こういう風に造ってください」という計画を立てて、帰ってきました。 |
◆ きれいな酒より、米の味を出した酒 日本酒は米で作るのだから、“米の味を出す”のが酒造りだ、と思って取り組んできました。昭和50年ぐらいに、珠洲市の広報に紹介していただいた時にも、既に同様のことを語っています。
日本酒はだんだん“きれい”になっている。でも、僕はそういう酒は造りません。日本酒は米で作るので、米の味を出した酒を造ります。そういうふうに、酒造りに取り組んできました。
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◆ 力のある糀をつくる 米の味を出した酒というのは、甘いというよりも、旨みのある酒です。よい糀をつくって、米にかけ、溶けやすいようにします。
糀はメーカーがたくさんありまして、あまり変わりません。酵母と糀菌は異なります。酵母は、アルコールを作る作用をします。糀の力によって米の旨みを出し、酵母がその旨みを食べて、アルコールに変わっていく。これが並行して進んでいくのが、日本酒ができていく過程です。
バランスが大事で、温度や糀の力が大切になります。まずはなにより、力のある糀をつくらないと、糀の力が続かない。
◆ うまい酒と鑑評会に通る酒 「うまい酒」と「鑑評会に通る酒」は異なります。僕は、たとえ審査に通らなくてもよいから、消費者が「うまい!」と言って飲んでくれる酒を造りたいと思っています。
若手にも、「自分の酒」を、「本来の酒を造ってください」と言っています。そうすれば、絶対売れますよ! その昔、宗玄は爆発的に売れました。自分が入った頃に比べると、4倍にまでなりました。
能登は杜氏の出身地ですから、酒造りにもっと力を入れないといけません。
◆ 能登杜氏は一つの産業
能登杜氏が稼いでくるお金、持って帰ってくるお金は非常に大きい。昔は20数億円と言われていました。能登にとっては大きいです。しかも、それを身体ひとつで稼いでいる。一つの産業です。
大手の酒造メーカーでは、若い杜氏を求めているんです。ですから、いくらでもあっせんできる状況にあるんですが、それなのに残念ながら、若い人が育成されていません。いま79歳ですが、
地元の行政にももっと力を入れてもらって、これから人材の育成を進めていく必要があると考えています。 |
(インタビュー/2011年3月) |
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