能登杜氏物語(サイトタイトル)
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酒造りの仕事をするようになって50年。能登の造り酒屋からスタートし、伏見、灘で長年仕事をしてきた。
阪神淡路大震災は、灘の酒蔵で体験した。
中学を出てすぐこの道に
 中学を出て、昭和30年ぐらいから酒造りの仕事をするようになり50年ほどになります。途中、27歳で結婚してしばらくは酒造りに行かなかった時期があるので、何年間かは抜けています。出稼ぎですから大変でした。
 最初は親戚に連れていかれて、穴水の中田酒造に行きました。その時は分析ばかりでした。次に滋賀県に4年行っていたときは、もろ子(糀を作る手元)ばかりでした。当時で5人の蔵人がいたのですが、小さかったので何でもしなければいけなかったです。
 ただ、それで分析を覚えたことが、後にあちこち行っても役立ちました。

大きな酒蔵も経験
 次は、京都の伏見に行きました。蔵人だけでも30人以上いる大きいところでした。技師一人も入れると37名でした。そこは有給休暇もありました。若い人が10人ほどいたこともあり、その人たちのための制度だったろうと思います。年間いる社員たちと一緒に野球大会をしたりと、親睦が深まる格好がありました。福井の越前糠(ぬか)杜氏が多かったです。当時の伏見には、まだ山本辰右衛門商店がありました
 当時は給料がどんどん上がっていましたし、本格的な冬を迎える前の10月から早めに行くと、「早出手当」のような制度もありました。大体10月から4月いっぱいまでいました。。10人ほどが能登の人間でした。酒もよく売れました。
 滋賀県にいた時は自然下での温度管理でしたが、伏見では保冷機が導入されており、蒸米もエアーシューターで流す仕組みになっていました。絞りも昔は袋に詰めていましたが、昭和42年頃には「やぶた」(酒を絞る機械)が導入されました。機械化が徐々に進み、楽になってきました。それから灘に行って、剣菱に30年行きました。
 最初の穴水が1冬のみ、次の滋賀に4年、伏見には10〜12年いたかな。

助手から様々な係を経て、灘で杜氏へ
 伏見も灘も、杜氏は越前糠杜氏でした。最初は「おいます」:追廻し(おいまわし)だった。役付きは、杜氏が一人、頭(かしら)、大師(だいし)、モト屋、釜屋、清酒係、槽(ふな)係があった。槽係が4人いて、夜中も交代で絞っていた。 自分の場合、伏見にいる時に槽係や清酒係もしていたので、灘に行ってもすぐ役に付きました。5〜6年で大師になり、その後、頭になりました。杜氏になったのは、それまでの杜氏が引退するので、杜氏に「推薦するから」と言われて。
 剣菱では杜氏を16年しました。杜氏になるとスタッフを集めるのに苦労しました。封建的だし、朝は早いし、給料は安いし、ということで、人集めには苦労します。今でも、地方で人を集めるのに苦労します。やはり同じ地域の人が一緒に行っていると、まとまって仕事をしやすいです。異なる地域の人が混ざっていると、もめごとが起こったりしがちです。

適切な処置、見て覚える
 酒造りのプロセスの基本的なことを書いたテキストもある。糀菌は、米100kgに対して10g程度。しかし、仕事の要領は、先輩の仕事ぶりを見て、実際にやってみて覚えるしかない。その時々の外気温度によって、手当ての仕方は微妙に異なってきます。
 いろんなことをしてもダメで、必要なことをしっかりするだけでよい。ボイラーの圧力はしっかりチェックしています。吟醸は、水の温度と時間はしっかり見ます。剣菱では吟醸は造りませんでした。それは、「誰でも飲める(手頃な価格の)酒を造ればよい」ということでした。9割が一升びんでした。スタッフの土産は、一人2箱まででしたね。

阪神淡路大震災と能登半島地震、被災の酒蔵
 輪島市門前の中野酒造に行き始めて3年になります。輪島市門前は4年前の能登半島地震の震源地です。蔵も被災したが、昔の槽(ふね)が潰れなかったので、震災の後も酒造りを続けることになさった蔵です。今年は普通酒だけ3本作った。最近は吟醸が売れないので、作りませんでした。ほとんど地元だけで消費してもらっています。典型的な地酒だな。
 小さい酒蔵は気を張るけど、人間を連れていかないので、気が楽でもある。量が少ないので、一人でも十分だ。仕込みにかかるときは、お手伝いの人に応援に来てもらっています。1月の10日過ぎに行って、ろ過して火入れしてきました。1本でも2本でも酒が造られれば、楽しみがあります。
 阪神淡路大震災の時は、灘に行っているときでした。2人が亡くなりました。

杜氏をめざす人へ
 一通りのことを10年ほどかけて経験すれば、杜氏になれるくらいの技術は身につくかもしれません。特に、規模の小さい酒蔵で仕事をしていると、いろんなことをしないといけないので、身に付きやすいです。報酬は、一番下のスタッフでも一日12,500円ぐらいでした。大体は、正月3日間も休み無しで仕事をします。中には、正月は仕込みを切る酒蔵もありますが。
 ものづくりに楽しみを見いだせる人であれば、楽しみながら仕事ができます。酒さえ腐らないように造っていけば仕事になります。皆に好まれる酒さえ造れれば、仕事が無くなることはない。半年仕事して、半年遊んで暮らせるようなこともありですが、半年間も酒造りをしている蔵も少ない。宗玄ぐらいの規模があると、半年仕事をしています。
 杜氏は、自分が頑張れば、「自分の酒」を造ることができます。とにかく楽しみを持つことがよい。
(インタビュー/2011年3月) 
酒造場名/ 中野酒造 株式会社
石川県輪島市門前町広瀬ニ5-2  TEL 0768-42-0008 FAX 0768-42-0008
http://www.okunotoseishu.com/html/shuzou/nakano_01.html
【銘柄】 亀泉


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