◆ 29歳からの遅いスタートだった 酒造りは、29歳から始めて40年以上になります。遅いほうですね。それまでは七尾の工場で10年ばかり働きに出ていました。それを辞め、自分で百姓をして食べていこうと資本投入していたところへ、「蔵人がひとり病気で欠けたので、来てもらえんか?」と誘われまして、それが酒造りを手伝うようになったきっかけです。
最初は、輪島の若緑酒造へ行きました。そこは今は酒造りをやってないですが、そこへ7年ほど行きました。それから珠洲のヤシキ酒蔵へ4年間。その次に、鳥屋酒造さんに入りました。それからずーっと鳥屋さんで仕事をしています。
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◆ 杜氏経験も、はや20年以上
杜氏になって四半世紀になります。杜氏の立場としては、酒を造ることも大事ですが、人を使うということの厳しさを感じますね。この頃の若い衆は、特に動かしづらい。鳥屋酒造での酒造りでは、私を入れて6人で仕事をしており、昔のままのやり方で酒造りをしています。近代化の機械は入っていないですね。酒を絞る舩(ふね)もあります。
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◆ 男のロマン 酒造りの面白さですか。それは表現するのがとても難しい。最初に酒造りをやろうと思った時は、男のロマンを感じて始めました。「杜氏もいい仕事じゃないか」と思うようになったのは、その後何年間かやって、それからでしたね。
酒造りは冬場の仕事ですから、春から秋は農業も行っています。
一時は養蚕業もやっていましたがもう辞めました。辞めて20年ほど経つかな。多くの人が養蚕に取り組んでいましたが、私が辞めてから、地域の多くの人も辞めてしまいました。当時はたいへん熱意をもって取り組んでいましたので、フィリピンまで行って養蚕の指導をしてきたこともあります。
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◆ 桑畑の跡地で植林を続けている 当時養蚕で生産した「かいこ」は、岐阜の高山に出荷していました。石川県にもけっこう協力していただいて、指導員の職員も5〜6人いました。県も本腰を入れていましたけれど、業界の景気が悪くなったので撤退しました。
珠洲にもかつては大きな桑畑がありましたが、現在そこには毎年植林しています。最初は杉を植えてきて、4〜5年前からケヤキを植えて、今はヒノキを植えています。所有している森は道路脇なので、人目に付きやすい目立つ場所ですから、木を植えないといけないと思って取り組んでいます。地元の人から笑われていますが、育つのが楽しみです。酒造りも一緒じゃないですかね。
田んぼはもう作っていません。野菜を少しは作っていますが。あとは、山が好きで、しいたけやナメコを栽培したりして楽しんでいます。
◆ 杜氏の後継者は? 能登杜氏もだいぶ衰退しました。後継者はなかなか育たない。育てようとしても続かない。冬は酒造りの仕事でもよいかもしれないが、あとの時期をどうするかとなると・・・。昔からそうなのですけどね。ただやはり昔は、漁業も農業も収入がそこそこ見込めたし、食いやすかったのだと思います。
日本酒の今後に関しては、ひとつは今の鑑定、鑑評会の有り方はいかがなものかという意見があります。というのは、もっぱら吟醸酒などがクローズアップされる結果につながっています。金賞をとった酒は確かによい酒かもしれないし、宣伝にもなってきたのですが、おおむね高価でもある高級酒は、そう毎日のようには飲めないですよね。かといって、普通酒など比較的安価な酒が今の仕組みでは話題になりにくい。そんな状態の中で焼酎が出てきて、日本酒は負けてしまっている。そのことを指摘なさっている鑑定官もいるのですが、意見として大勢にはなっていませんね。 |
(インタビュー/2011年5月) |
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