◆ 丹波杜氏のもとで酒造りをスタート 最初に酒蔵に行ったのは、24〜25歳の頃です。それまでは違う仕事をしていましたが、以降はずっと酒造りの仕事を続けています。最初は三重県に出かけ、丹波杜氏のもとで仕事をしました。それからあちこち回り、越前杜氏の下でも仕事をしました。その後、能登杜氏のもとで仕事をするようになりました。
昔はこの辺りの人は、伏見などへたくさん行っていたので、私もそういう知り合いの人から、「誰かおらんか?」と声を掛けられ、最初の丹波杜氏のもとに行きました。その頃は、地域の多くの人が出稼ぎに出て行っていました。
◆ 明治時代からの酒屋仕事あっせん所
滋賀県大津に、能登屋(のとや)という、今でいう職安みたいなところがありました。皆そこで紹介されて、あちこちの酒蔵に酒造りに行っていました。仕事先は主に酒屋でしたが、その他の仕事もあったようです。祖父や親たちは、そこでいろいろ知り合いができたと言います。親も酒屋(酒蔵)へ行っていました。百姓をしながら、いろいろな縁で出かけていました。
◆ 能登杜氏の跡を継ぐ
銘柄の「大慶」の名前は、地元では大漁の時に「大慶な」と言って喜ぶところから名づけたということです。おめでた 最初のなりたてはホントの下っ端やったから、給料は安いもんやった。杜氏は何倍ともらっていた。杜氏になれば、給料も違う。
小さい酒屋さんでの仕事は、あらゆる仕事を全部やるので、何年か行くと工程などが分かるようになります。大手に行くと、一つの仕事だけを担当するので、ちょっと全体は覚えられん。
私が最初に杜氏になったのは20年ほど前です。三重県津市の倉田酒造でした。その頃、能登から出かけていた杜氏さんが辞められて、その跡を継ぎました。そのうちそこもだんだん造りが少なくなって、「休んだらどうか」となり、杜氏組合から今の蔵を紹介されました。 |
◆ 普段は夫婦で漁業を 杜氏として仕事に行くのは、11月から3月ぐらいと短い期間です。1軒では少なく、期間も短いので、2軒掛け持ちしています。1軒は富山県滑川市の千代鶴酒造です。正月までそこにいて、その後にもう1軒、小松市の東栄松商店に行っています。こちらは大吟醸も造っている蔵です。石蔵のきれいな蔵で、お客様が蔵に来られます。
普段は漁業をしています。百姓は辞めてしまって、今は漁業一本。漁業は、もずくやワカメ、魚を少し獲ったりしています。零細な沿岸漁業ですね。夫婦で舟に乗って漁に出ています。年金暮らしの75歳。健康のためにも仕事をしています。仕事をしていると、元気でいられます。 |
◆ 私にとっての酒造りの魅力
酒造りの仕事で私が一番面白いのは、大吟醸を造ることでしょうか。「今年はこうしよう、ああしよう」と考えます。酒造りはスパンが一年に一回なので、「今年もこうやったなあ」とだいぶ楽しみになりました。
酒造りの中でも吟醸は面白いです。と言っても、吟醸は心配の種なんです。普通酒であれば、慣れれば、大体のことをやっておけば出来ていきますけれど、問題は吟醸です。鑑評会も念頭に置かざるを得ません。
東栄松商店(銘柄は「神泉」)は、現代の名工として全国的に有名になった農口杜氏さん(鹿野酒蔵)と同じ管内の蔵なので、大変です。生き残りのためにも高級酒が多いです。地元の鑑評会でも選ばれていますが、やはり鑑評会に入らないとダメだね。「農口さんに負けないでやろう」と社長も仰っています。農口さんはNHKにとりあげられたり、全国放送だからやはり影響は大きい。 |
◆ 小泊は多くの杜氏を出した地区 出身は珠洲の小泊地区です。小泊は、金沢大学が旧小泊小学校の廃校校舎を利用して、能登学舎を運営しているところです。子どものときあの学校を出て、今も能登学舎の下の辺りに住んでいます。その能登学舎に来ている学生たちが、確か一昨年かな、取材に来まして、漁師仕事のことや酒造りのことを聞いていって、内容をまとめて本にしてくれました。
かつての小泊には、杜氏になっている人が多かったのですけれど、今は私一人です。杜氏でなくても、酒造りの手伝いをしている人自体も少なくなってきていて、寂しいですね。 |
(インタビュー/2011年5月) |
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