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[山口和紙工房]
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■和紙は八尾の代表的なお土産 こんなに狭いお店だけれど、バスの集合場所に近いから、結構のぞいていただけます。うちは何人か入るとすぐいっぱいになりますけど、お土産ものを売る店がまちにたくさんありますし、特におわらの時期にはうちの品物を売っている人も結構おいでます。 私はずっと紙の技術屋でやっていたから、「残していかないとダメだ」と思うものだけを、ここでやっているんですよ。それから観光のお客さんと結びつくものですね。 ■ふんわり染めたぼかし染め和紙 ぼかし染めは、私が染めています。色がふんわりしていて、よそには無い雰囲気なので人気です。一枚一枚染めているから、みんな違う。見ていると全部欲しくなると言われます。化学染料だと、着物などでも洗濯したり陽に当てたりするうちに色褪せてしまうけれど、これは顔料を使っていますから、いつまでも色が変わらない。 それが良いということで、最近は押し花絵をする方が多いですけど、絵の背景にこれを使うためによくお求めいただいてます。 ■各町のおわら踊りを人形に 八尾のおわらは各町で揃いの浴衣をつくってますから、知っている人が見れば「これはどこの町だ」と浴衣で分かりますよね。それで、浴衣まで再現したおわら人形を作りました。着物の柄は、型を彫って染めます。 糊をして、乾かしたら糊のすき間ができるので、白く浮き出た糊の付いていないところへ赤なら赤の色を塗りこみ、あとで糊を落すときれいに型が出てくる。随分面倒な手間のかかる仕事です。着物はあまり本当すぎるとリアル過ぎてデザインにならないから、省略したり目立つところは強調して、おわらのイメージを出すように工夫しているんですよ。 ■紙屋の指導を長年続ける 私は今78歳(2007年8月現在)。家は何百年も続く紙屋です。五箇山で紙漉きをしていたら、県から「指導に入ってくれんか」と言われ、以来、五箇山や八尾でずっと指導をしてきました。昔は山手に300軒ほどの紙屋があって、中にはひどいところで漉いていたところもあった。萱葺きの萱が部屋へ落ちてきたり。そんな当時の紙屋を毎日巡回して、品質向上や原料の栽培、この紙は厚い、薄いとか、若い人と一緒になってやりました。 昔は中間の商人が搾取したとか言ったけれど、今考えてみれば、商人たちが五箇山の紙を全部買い占めて、1年間かかって高岡、金沢、能登までへも売りさばいてくれた。それと、五箇山の人は米が無いでしょう。「この米食べてまた頑張ってください」と、秋にどーんと用意してくれた。そんな時代もあったんです。 ■五箇山の和紙も指導 昭和50年頃までは、県による和紙の指導所があって、そこにいました。紙の製造業者、加工業者を指導して歩きました。五箇山にもそういう具合で指導に行って、後継者養成もしてきました。今では五箇山は道の駅のところに立派な施設ができ、全国でもいちばん良い産地になっています。そうしたつながりで、お店には五箇山の和紙も多いです。 昔は八尾と五箇山の和紙であまり交流は無かったですが、五箇山と八尾の生産者に指導をしていたときは、染めをしたり、その色が弱いとか、あるいは川へ逃げていくというと排水の対策をしたり。 だから、伝統の和紙だ、と言っても、こういう紙を染めるのには、かなり新しい技術が入ってますよ。 ■越中の薬売りと和紙の関係 富山の和紙は、薬用の紙もかなり最後までありました。あとは蛇の目の唐傘の紙。有名な越中富山の薬売りと和紙は結びつきがあって、薬屋さんが薬を包むための紙として需要がありました。昭和23年頃にはまだまだ売薬屋さんはいっぱいおいでました。八尾の仲介問屋さんがおって、紙を買い集めて送り出していた。 戦後は洋紙に替わって、だんだん限られてきた。袋は要らなくなり、中身のあん摩膏薬も、今のサロンパス代わりに貼るものですが、和紙に松脂を引いたものを、火で焙ってあっためてぺたんと貼るとくっついて、あかぎれだとかに貼りました。その原紙も八尾で作っておりました。 ■実用から、民芸品の和紙へ 八尾の和紙は、集落ごとにいろいろでした。乗嶺地区なら膏薬紙、大長谷のほうは障子紙、野積も奥のほうはほとんど障子紙で、手前のほうは売薬の袋紙。何軒かは戦後もやっておられました。 民芸的な和紙で言えば、八尾は先行していましたね。染め紙や型染めも、終戦後早くからされていました。桂樹舎の吉田桂介さんが芹沢_介さんの型染めを和紙に導入されましたしね。日本でも、芹沢さんの型を借りられるのは吉田さんだけでした。 ■富山の和紙の呼称を統一 越中和紙というのは、今、五箇山と八尾の紙が認定されています。あとは下新川のほうに、温泉がある蛭谷(びるだに)というところがある。あそこで1軒だけ蛭谷和紙をされている。富山県内でその3箇所だけですね。 それぞれ、五箇山和紙、八尾和紙として頑張っていたんだけれど、伝統工芸として通産省に認めてもらうには、産地の指定をまとめてくれということでした。ちょうど私が世話をしていた時分だったんで、町長さん、村長さんと相談し、「越中和紙」としたんです。 私が全国の和紙の会長をしていたときには、ちょうどその「越中和紙」を本で紹介してくださるということで、原稿を我が家総出で書きました。 ■昔の話も観光のおもい出に 今は八尾にも観光で訪れるお客さんが増えていますから、もし聞かれる人があれば、「八尾の昔はこんなんやったんやぞ」とか「五箇山の人は昔、苦労したがや」とか、昔の和紙のこんな話を教えてあげているんです。 |
カニさん人形は 涼を誘うインテリアとして
曳山会館の近くです |
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