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2003.07.23Update |
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紙に取り組んだのは二十歳ぐらいから。罹ると当時大抵の人が亡くなる肺結核を十七歳頃に患ったが、運良く快方に向かった。そうなると親の足手まといになってブラブラしておれん。 その頃、八尾の町の紙問屋と山家の生産者で組合を作り製紙指導所を作った。当時、紙はどう作られるのか、野積村や仁歩村と関係のある人以外、殆ど知る人がなかったろう。私も勿論知らなかった。が、申し込んだらOKになった。 「体が良くなれば、八尾になんか居られない。東京へでも行きましょう」と、仕事なんて全然上の空。今で言う「リハビリ」のつもりでちゃらんぽらんとやっていた。 それでも一年あまり経つと、生産者や紙問屋とも親しくなってゆく。山から出て来た紙を見たりすると、和紙が次第に分かって来る。象牙色の紙の面に、松板の杢目のあとがうっすらとついていたり、原料の楮の光沢がある。自然が生み出した美しさ。何も分からん者でも引き寄せられる魅力がありました。 自分もこうした紙を作ってみたいと思うようになってくる。だんだん深入りして、和紙づくりの虜になってしまい、仕事に精が入る。際限もなく面白くなってくる。色や漉き模様を付け、こんなこと今まで誰もやっていないだろうなんて力んでいたが、何のことはない先人がとうの昔にみんなやったことだった。 そのうちに体もよくなってきた。東京へ行くことにした。その頃、機械漉の洋紙がすごい勢いではびこってきていた。値段が安くて使い勝手がいいときている。「和紙なんて典型的な斜陽産業になるのでは」と、働き口も見付けて切符も買って、もう明日にでも出発という晩に、ふとんに入って考えた。「東京へ行っても俺はまた紙に引き戻されるんではないかナ」 紙をつくるあの面白さがぐいぐいと自分を引っ張り戻すわけです。斜陽産業であれ、飯ぐらいは食べられんこともあるまい。どうせ帰ってくるんであれば、行かん方がいい。上野駅まで出迎えの電報も打ってしまった後だったから、後で先方からひどく怒られた。 和紙で自分の人生がどう拓けるか全く分からない。暗中模索。それでも、製紙指導所時代に作ったいろいろな紙にスゴク興味を持ってくれた人がいた。仁歩村出身の半分日本画家で半分表具師という変わり種の谷井三郎、号を秀峯。意気投合し、二人で世の中に打って出ようと、仕事場を新築して「富山県美術紙研究所」と名付けた。山手から三、四人を雇い入れて、今でいう美術紙をつくった。日本での先駆けであったと思う。大阪や京都の店に持って行くと「面白い、面白い」と言われて商売になった。 満州で戦争が深まると次第に日常物資が不足して、“皮革禁止令”が出た。東京で皮革に代わるものの研究をしていた日本擬革製造という会社が、我々のつくった美術紙に眼をつけた。そのうちに吸収合併されて、八尾工場の社員として、生まれて初めて給料を貰う身分になった。 最初のうちこそ「結構なもんだ、楽でいいわい」と思ったけれど、自分で作りたい紙が作れなくなってきた。大分悩んだ末、二年程して飛び出した。向う見ずに辞めたから何もすることがない。有り難いことに、八尾町の旦那衆が「吉田桂介がブラブラしておる。遊ばせておけない」と、出資し合って紙漉工場を作ってくれた。 昭和十六年の暮から作業を開始、軍隊手帳用の紙や干し米など糧食を入れる袋の紙、風船爆弾の紙までつくった。四、五十人を雇用して盛んであった。 戦争が終わると世の中にモノが無くて、どんな紙でも売れる時代になった。役員会で、機械を導入してチリ紙の量産を図ろうとなった。私は「機械紙は八尾でなくても出来る。八尾はやっぱり手漉でいった方がいいんではないか」と考え、御恩になったけれども、機械が稼働するまでを見届けてから、そこを辞めた。 また浪人である。終戦直後の昭和二十一年、三十一才になっていた。 東京で柳宗悦という先生が民芸運動を展開されていた。先生の「工芸」という雑誌を富山で見せてもらっていると、「和紙というものは、工芸という視野から見てもかなり高い位置にある」と書かれてある。それを読んで大感激した。ますます決意を新たにする。 日本民芸館に一面識もない柳先生を訪ねた。「私は生涯を和紙で貫こうと思っているんですけど、どういう方向に行ったら良いでしょうか」と言う田舎出のぼんぼんを、一人前の扱いで書斎に招じ入れて、いろんな紙の見本を抱え出してきて、「これはみんな昔からの手法を忠実に守っている真面目な紙だから美しいんだ。色の紙も化学染料でなく、みんな草木染だよ。君がやるときは伝統の手法をしっかり守った、昔のような紙をやりなさい。そうすれば間違いない」と。 製紙指導所にいるときも、出てからも、自分の思う紙を作ってきた。雑誌「工芸」に触発されて、その頃は非常に少なかった草木染も、その辺の草を採ってきてやった。昔の布の色をどうやって紙に出せるかと我流でやっていた。ある時、日本上代染色を研究されている京都の大学の上村六郎先生が八尾の紙を調べに見えた。先生は「何で八尾にこんな紙ができるんや」ともうびっくりされた。親しくなって、研究の手伝いをした。お付き合いは先生が亡くなるまで四十幾年も続いた。先生の許に出入りしているうちに大学の著名な先生方とも知り合った。 東京では柳先生の民芸協会の諸先生方にも親しくして貰える。東京の師匠と京都の師匠。いろんなものの見方や考え方を習った。大変有難かった。 人間がこの世をわたってゆく上で、自分がとことん師父として仰いでいく先達をもつことは、絶対に必要だ。それも選ぶなら一級の先生を選ぶことだと思っている。何かあると、「先生だったらどうされるか」と考える。作品をつくったとき「先生ならどう言われるだろうか」と思う。こんな反省の上に立っていると、何事でも間違いは少ないようだね。 昭和二十一年、戦争に負けて世の中がひっくり返っている時期に、今度は自分から動きはじめた。文ナシの自分の頼るところは親戚になる。有力な人達が多く、出資に賛成をしてくれたが、まだお金が足りない。 富山に山田昌作さんという方が居られた。北陸電力の元社長で、富山の経済を左右されている大御所であった。知遇を受けた人から紹介いただいた。「和紙は二千年の日本文化を担ってきた大事な素材。今、国は乱れに乱れて日本文化の存続も危うい。和紙を建て直して日本文化を守りたい」 若かったから、本気でそんなことを考えていた。丸坊主の詰め襟姿の言うことを聞いてくれ、多くの若い経済人にも「君等もみんなお金を出せ」と働き掛けられた。ここに株式会社越中紙社が設立された。井田川を前に、軒の出の深い飛騨の大きな民家を移築して工場にし、仕事を始めたのは昭和二十三年であった。 「ヤレヤレ、これでやっと自分の思う念願の紙が作れるわい」と思ったが、それからの経営が大変であった。世の中に馴染みのない紙をつくって、十五、六人程の従業員を抱えて、東京、関西と東奔西走した。でもね、どんなに苦しくても行き詰まっても、この工場だけは潰すわけにはいかない。出資してくれた方々に迷惑をかけることは出来ない。そんな思いに励まされたね。 世の中はどんどん変わる。和紙の領域もどんどん変わる。機械の紙に和紙は押されて本当に落ち込んでしまうのではないか。そんな不安がいつもあった。 柳先生の民芸理念を中心に、第一級の先生方が活躍されていた。その中の芹沢けい介先生に奨められて、型染めの技法を学んだ。何年もかかった。そして先生の創案になる型染芹沢カレンダーの製作の手伝いをするようになった。この仕事は先生亡き後の今も桂樹舎の大事な仕事として残っている。 模様の紙が出来るということは、大したパワーを得たことであって、何としても活かさねばならない。生活から離れてゆく和紙を、日常生活に戻さねばならないと、札入れ、名刺入れを皮切りに様々な小物類の製造を始め、ある程度軌道に乗った。世の中がそういう気運にあったのかも知れない。 それで、紙づくりは越中紙社、加工は別に仕事場を建てて、桂樹舎という名前にした。車の両輪が出来たと思った。昭和三十五年であった。 紙の仕事にも移り変わりがある。一生懸命つくっても消えてゆくものがある。三十年、四十年と続く息の長いものもある。芹沢けい介型染カレンダーも、手提げの袋も息の長いものの一つである。買い物をすれば必ず品物を袋に入れてくれる。商店によっては、立派な紙質の凝ったデザインの袋をくれる。袋はただで貰うものと思っていたが、買う袋を作ってみましょうと、型染めにした和紙の袋をつくった。今は少し需要減になり、挽回策に頭を痛めている。 しかし自分の仕事を振り返ってみて、何十年とやって、まだこんな程度かと思うと情けない。パリのルイ・ヴィトンは日常の小物をつくって世界中の誰もが憧れるブランド商品に仕上げている。八尾の紙製品もルイ・ヴィトンに迫る位の気魄を持ちたい。[・・・以上、八尾風便り[一](2000年発行)掲載分より抜粋して抄録] |
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