「八尾風便り」web版 その八
2007.09.12Update
胡弓と三味線の音色が聞こえる坂のまち


環境が変われば、作品も変わる
雪の中、八尾の桐谷の仕事場を訪ねる。八尾の中心街に比べると、倍以上も雪が積もった学校の校庭は広々としていた。背景に広がる森、木造の大きな校舎、里山と見事に調和した空間だ。作品を創造するに相応しい場がそこにある。

古川 通泰さん[アトリエにて]

プロフィール
古川 通泰[ふるかわ・みちやす]

一九四〇年富山県高岡市生まれ。一九八二年より画業に専念。一九八七年現代美術選抜展招待出品。一九九〇年にニューヨークで初の個展を行い、以後ドイツフランクフルトやベルリンでも個展を開催。一九九四年より、八尾桐谷で創作活動を行う。二〇〇九年三月永眠。




01-単身スペインへ
 -- 坂のまちアートには、ずっと継続してお越しいただいています。八尾に最初にお見えになられたのはいつ頃ですか。
古川さん◆一九九三年の秋かな。その前から何度か遊びには来とったんですよ。その頃に印象に残っていたのは、グラウンドの真ん中に車を乗り入れたら、ばあちゃんに「あんた、何しにこんなとこに車入れたがや」と言われた。「静かなとこやに、何とおとろしいとこやな!」と、思ったら、真ん中にマムシがとぐろを巻いとった。
 -- 親切心で言われていたんですね。海外が長かったんですか。
古川さん◆長いんじゃなく、展覧会が一九九〇年にニューヨークで二ケ月半ほど、その後、ドイツのフランクフルトと、その三年後くらいにベルリンで二ケ月半ほど。フランクフルト、ベルリンを合わせて、ドイツで半年ほど滞在しました。
 この世界には、高岡でサラリーマンをしていたのを辞めて、四十一才で入りました。生活できないから、新聞配達や八百屋の配達、子ども相手の月謝泥棒をやって二年半ほど過ごし、「こんなことをしておったんでは、サラリーマンを辞めた意味が無い」と、女房に「とにかく銭を集めて欲しい」と言って、その金でスペインへ行った。
 絵描きさんは、みんなフランス、パリと言っていたが、なぜかスペイン。初めての飛行機、初めての外国で、何日間いられるのかも分からない。言葉が通じない所に行って、それでも絵を描きたいかどうか確かめたかった。女房にはそんなことを言ったら申し訳なかったから、「なにせ、外国で生の絵を見たい」とだけ言って出かけました。
02-ピカソの「ゲルニカ」を見る
古川さん◆その当時、家にあった唯一の画集がピカソ。その中にゲルニカの写真があった。大きな写真で、結構あらが見えたんです。日本では、絵の具が垂れたり線がはみ出たりしたら、そんな雑なことでは駄目だと言われる。そんな風潮の中で、なんでこんな絵が有名なのかな、という疑問があって、これは是非、生で見たいと思っていた。
 実際に見たときは、やっぱりショックでしたね。ショックで毎日行った。いつも朝一番から行っていたら、三日目から、「毎日来てるね。俺の椅子を貸すから、座って真ん中で見ていなさい」と、守衛の親父さんが椅子を貸してくれた。それで、いっぺんにスペインが好きになった。一週間毎日、朝から晩まで通って、昼間は向いの店にパンを買いに出てもフリーで行かせてくれたし、スケッチしていてもペンをとっても、何も言われなかった。
 泊まっていた宿が千円とか千五百円ほどの宿で、ロビーにしかテレビが置いてない。街に行っても銭がかかると思って、夜はいつもロビーでテレビを見ておった。カウンターには、そこの親父さんや奥さんがおる。あるとき親父さんが「日本に帰れ!」とか言うわけですよ。自分としては、ぎりぎりまでいたかったけど、十日ほど早く帰ってきた。そしたら、ベルリンの壁が崩壊したということだった。
 八十日近くの旅の中で、失敗談は語り尽くせないほどありましたけど、あの時になけなしの金を使って旅をして、今から思うといい勉強やったね。
03-絵だけで伝える
 -- 絵描きを続けられるかどうかを見極めるという意味では、すごい成果があったのでは?
古川さん◆その時はまだ、これはという確信は持てませんでしたが、言葉の通じんところで、何かメッセージを発するということを考えされられました。
 喫茶店で、「コーヒー」と言っても通用しない。ミルクも通用しない。それを繰り返しているうちに、「待てよ、私は絵を描いて、相手に何かを伝える仕事ではないか」と。ゼスチャーも通じないとなると、もっと単純明解に伝える普遍的なものは何か。コーヒーの絵を描いて「coffee」と書き添えたら通用した。卵も絵を描けば通用するし、ニンニクを入れてくれと言う代わりに絵を描いたら、吊ったニンニクを持って来て、「これか」と確認してくれた。
 自分だけが思って描いてきた絵は、ちょっとおかしいんではないかと感じた。
04-ニューヨークで展覧会
古川さん◆そういう旅をした次の年、急に「ニューヨークで三四〇坪のスペースをやるから展覧会をやらんか」と言われた。外国で展覧会とは、夢々考えもしなかったから、「金がどうであれ、何が何でも」と思って、「やります」と答えた。当時、借金がすでに八百万円ほどあったが、「それとは別に借金させてもらえんやろうか。展覧会の話があって、新しい絵を描きたい」と言うたら、「それは良い話や。好きなだけ言われ」と言っていただけた。
 当時は苦しい時で、河原で拾ってきた石に絵を描いて、三千円、五千円で売っていた頃でした。それでも、「キツネの絵は私のトレードマークや。他の絵は描かん」と言うていた。暑い最中に一五〇号の絵を七〇枚。自宅の床に広げ、晴れた日は外に広げ、まあ一心不乱に描きましたね。
 当時は日本で展覧会をしても、「お前の"赤"ちゃ、血の色みたいや」とか、「キツネちゃ人間を騙すものや。そんなものに誰が銭を出す? 表看板はそれにしても、隣の部屋でバラの絵や立山の風景を描くもんや」と言われた。あまりにも言われ過ぎたらこちらも意地になった。それが、今ある背景やったと思います。美大を出とらんことに負い目があって、人が一年間に百枚描く言うたら、自分はどうしても二百枚描きたかった。そんな按配で走って来ました。

キツネのモチーフは
もはや古川さんの
トレードマーク
05-元気が出る赤
古川さん◆そうして向うに行ったら、グッゲンハイム美術館の館長が直接来て、これを買いたいと言う。「まだ会期はあるから、もっとよく見てから決めたらどうですか」と言ったら、「あなたは私の質問に答えておらん」と言う。「答えとらんて、すぐ決めなくても良いんじゃないかと言ってます」と言うても、「そういうことはあなたは言わんでもいいことながや、イエスかノウか」と言う。それはうれしいから、「イエス、イエス」と言うたら、その場で館長直々に値段交渉を行っていった。それがきっかけになって、全然知らないおばさんが赤い一五〇号の絵を買いたいとか、いろんな話があった。
 余りにも日本と違うものだから、アメリカ人というのは阿呆かなと思う時がありましたね。だけど、皆さん「赤は元気が出る」と言われるし、ああ、そうなのかなと思って。それからですかね、なんとなく生活できるようになったのは。
 -- アメリカでどれくらい作品が売れたんですか。
古川さん◆五点ほどです。日本で個人に一五〇号の大きさの作品が売れるというのは基本的に考えられんこと。私の作品だけでなく、有名な絵描きさんでも滅多にない。それが、ニューヨークで展覧会しているのに、テキサスのダラスから来た人が買ったりという按配で、私にしてみたら夢、夢、夢が現実になって、「アメリカちゃ、こりゃどうなっとんがや」と思ったね。
 その時の展覧会というのは、富山の福岡にあるヒヨコの伊勢さんがニューヨークでビルを買われて、そのオープニングに展覧会をやらんかと誘っていただいたものでした。
 -- それが大きなきっかけで、絵の道で喰っていける自信がついたんですね。
古川さん◆確信が持てたというぐらいです。「人からいろいろ言われても、私は私や」と。帰ってきてからも金は貯まらん。絵描きというのは貧乏で当り前なんじゃないか、と肌に感じましたね。
06-生きざまを表現する
 -- 貧乏はそうかも知れませんが、ポイントは評価。評価してくださる人がいることが重要です。
古川さん◆かと言って、外国でめったやたらに展覧会ができる訳でも無いし、小さい作品ではテクニックに走りがちになり、自分の生き様みたいなものが出てこない。
 最近は、死ぬ前日に満足やったと本人が思えるかどうか。そういう生き様でありたい、と強く感じるようになりましたね。一番端的にそれを感じさせてくれたのが、ベルリンです。
 「ドイツでは赤をメインに使う絵描きさんがいないから、是非この絵でやりたい」と声を掛けられ、「それならずっと描いてきたパターンだから、寝とっても描けるわ!」と引き受けた。運送会社から飛行機、倉庫まで、全て私の方でチェックすることになっていて、出入口のサイズまで測りに行った。ところが、描いても描いても他人の絵みたいな白黒の絵しか出てこない。そのうち、画集を作るからポジを送れと言われた。「半年か一年ほど延ばしてもらえんだろうか。約束した赤い絵が出てこない」と言うと、「何か状況が変ったんですか」、「実は描く場所が変わった」と。
 あまりにも極端に絵が変わったから、こちらは心配で心配で仕方が無い。「写真を撮ってすぐ送りなさい」と言われ、送ったら折り返し電話がきて、「素晴らしい!」と言う。その時も、「この人たちはアホかな」と思った。
07-描きたくてならんで書いた絵
古川さん◆こんな絵に変わるとは、自分でも展開がよう分からんかったが、元大統領のワイゼッカーが来られ、「桐谷日記」というタイトルの作品を見て、「ストーリーは分かるけど、このキリタニとは何や?」と言う。「自分の仕事場です」と答えたら、「あなたはそんなに素晴らしいところで絵を描いているのか」と言われた。「これは抽象画ですよ。風景はどこにも描いてない。どうしてそう思うんですか」と聞いたら、「やあ、この絵は描きたくてならんで描いた絵や」と。
 褒め言葉でも、僕らみたいなものを元気づけてくれる言葉ちゃ、そんなに無い。それで決定的に「私は絵描きでいこう」と思った。それが、六、七年前かな。今までの六十二年間で、あの言葉が一番印象に残ってる。
 言葉の通じない違う国で自分の絵をさらしものにして、メッセージ性があるかを試したい。簡単ではないけど、それが本当の展覧会や、というのは非常に強く意識します。
 -- 古川さんのあの赤は、海外でもそんな色づかいをする人はいないということですか。
古川さん◆リアルな絵で、人物を描いたバックに赤、とかはある。それはアメリカもヨーロッパでもそうでしょう。心象風景を描きながら、赤をメインにするのは無かったんですかね。

「桐谷日記」の前で
08-環境が変われば、絵も変わる
 -- テーマが赤と御存知の上で描いて白黒になる、というのは桐谷に移られてからですか。
古川さん◆そうです。十六年間、休校になっていた学校を、大工さん、電気屋さん、水道屋さんに一ケ月掛かって直してもらった。その間に村の人が、「あんた何しとるがけ?」と恐る恐る見に来る。「実はここを借りたがや」と言うと、「長いこと電気の点いとらんやった空家を、それは良い」と言って、「昔は一三〇世帯あったがや」とか、「昔はものを切る谷やった。それを代官所が縁起でもないと言うて、桐谷に変わったがや。古文書が好文寺に残っている。」とか、そういう話を年寄りがぽつぽつ聞かせてくれた。
18-空間の記憶
古川さん◆この学校を出た人たちもいっぱい訪ねて来られた。「そこの三番目の木が、うちのじいちゃんの木やった」とか、「あの本棚の落書きは、誰某ちゃんが何年の時に書いたがや」と、それは細かいことをいっぱい言われた。
 キツネの絵ばかり描いていたのが、どうしてここでそんなに変わったのかよう分からんかった。でも、今から思うと、白黒の絵ができたのは、「僕らは、ここは自然が素晴らしいとか生意気なことを簡単に言うけれど、最初にここで囲炉裏を作った人のことを考えると、先人への鎮魂歌が必要ではないか」という思いが非常に強くなったからだったんでしょう。

校舎を活用した桐谷のアトリエ



09-人間の多面性
古川さん◆その前後に、あの顔の絵を八千枚描いたんです。今から思うとキツネの絵が方向転換するときでした。人間というのは、結構多面性を持っている。しかし、人は仮面を被っていると言いながら、自分でも一日二十四時間、同じ心理状態の時というのはあるのかと。
 それで、理屈で無く、実際にキャンバスを一万枚用意して描いてみよう、と顔を描いたんです。
 -- それで「日記」というタイトルが付いているんですね。
古川さん◆あれをドイツで並べたら、隣のポーランドから、顔の絵だけの展覧会をしてほしい、と政府の公式文書で来たんです。ただし、ポーランドは財政が困難だから一切資金は出せません。会場は提供しますから、申し訳ないけど運送費、カタログ代、ポスター代とかは古川さんが負担して欲しいと言われた。大使館の人に「いくらぐらいかかる」と聞いたら、二百万近くということで、「それは困る、それは出来ない」と断った。
 でもその時に、「何でこの絵をやりたいのか」と聞いたら、「アウシュビッツで亡くなった人の鎮魂歌のような絵だ」と言う。「私はそんな意味で描いたんではないんや。私の日記、ストーリーや」と言ったら、「描いた人はどうであれ、見る人はそんな風には思わない。だから是非」と言われた。その時にも、キツネの絵の時と同じで、「元気が出る」とまた言われた。
 何かパターンを決めていけば売れる可能性が高いのに、仕事はそんなもので無い、と感じましたね。
顔が並ぶ大作「日記」
10-アウシュビッツとヒロシマ
古川さん◆ベルリンの展覧会では、この「日記」を展示した部屋が一番人気がありました。皆さんが、「うちのじいちゃん、ばあちゃんに似てる」というようなことを言っているのが、仕種で分かる。受付の人に「一枚分けて欲しいと言われました。いくらと言うたらいいですか」と聞かれたが、「一枚一枚分けることはできん」と、結局売らんかったです。
 その時にアウシュビッツに行ってきたんですが、収容所の門をくぐった時に匂いを嗅いだ。匂いがする訳じゃ無いんだけど、凄さがそのまま残っているんです。女房と二人で三日間毎日通ったら、ガイドの人が「日本はヒロシマがあるじゃないか」と言う。向うの人が「ヒロシマ、ヒロシマ」と言うものだから、帰って見に行ったらやはりショックでしたね。意味は違うような気がしますが。
 それで、これはずっと後ですが、坂のまちアートに来る記者と知り合いになり、広島に何千枚でも寄付をすると働きかけてもらったところ、「難しいです。何で富山の人が?という言い方をされて」とのことだった。そんなことがありました。
11-好きか嫌いか
 -- アウシュビッツの人との感覚の差ですね。もうちょっと自由に解釈されるといいですね。
古川さん◆イメージやメッセージが多面的に広がるというのは良いんではないか。ダラのひとつ覚えみたいに、八千枚も描いてきたからにはそう思わないと。

 -- 絵が分かる分からないとは、そういうことを感じるかどうかでしょう。
古川さん◆好きか嫌いか。いくつか見比べていくと、「あんた年いった割には、去年の方が良かったね」とか、「この人の絵は嫌いや。坂のまち美術館に飾ってあった人の絵の方が好きや」とか、だんだん好みが出てくる。
 描いた者としては、「何描いてあるがですか」と言われると、「ああ、自分の意図したところは伝わっておらん」とガックリくる。立山の風景画とかで無く、抽象的な山が描いてあるところに、「これはどこの山け?」とか「こんなのどこにあるがですか」と言われるしね。「こんなことを説明せなイカンが?」と思う。
 -- 必ず出る質問でしょうが、虚をつかれるという感じですね。ベルリンに行かれる前に八尾に来られていますが、八尾は富山ともまた違うものを持っているということですよね。
古川さん◆富山にいると、立山ははるか向こうに見渡す感じ。ここ八尾におると、見上げてそこにありますという感じで全然違う。立山の麓にキツネが歩いとるのでは、私のイメージが全然つながらないけど、桐谷の山なら木が一本一本見えるから、そこの蔭からキツネが出てきますよ、とかいうストーリーがスムーズに出てくる。ドイツの人が言われたみたいに、環境が変われば、心理状態も変わってくるものです。
12-仮面を被っている人間
 -- キツネは精霊みたいなものなんですか。
古川さん◆私の発想はそうではなかった。人間というのは素顔ちゃ見せない。仮面を被っている。人間ちゃそういうもんだ、という発想でやってきた。
 絵描きになった最初の時、私はずっとキツネの絵を描いて、タイトルはいつも「お祭り」にしていたから、祭りちゃ何や?と、図書館で調べてみた。「古代の厳しい環境の中で、何年にいっぺんか年にいっぺんか、上下関係を全く無視して無礼講として仮面を被って行ったのが祭り」、というようなことが書いてあった。
 最初は、お面と言われるものは何でもと思って描いた。オカメ、ヒョットコ。顔に色を塗っただけでも、人間の心理は変わるのではないかという気がして、ピエロも描いた。角度の鋭いキツネのと、お多福の丸みを帯びた顔がやっぱり対照的で、総称して「お面を被っている」と。
 ドイツの時に、「あなたは心理学専攻なんですか」とか「哲学専攻ですか」とよく言われた。向こうは、建築家もお医者さんも哲学や心理学を勉強するがやてね。絵描きはもちろん。「宗教の勉強をしたか」とも言われた。どうしたらこんな絵が出来てくるの?と。山の手前に太陽とお月さんのある絵がいくつかあって、「日本ではこういう風に見えるのか」と言うがやちゃ。ニューヨークの時は、「これは自分のアイディアや」と言って事が済んだ。「お前は天才だ」とか「お前の発想は素晴らしい」とか言ってくれた。ドイツでは通用しない。
 -- 理路整然と、理詰めに言わないと駄目なんですね。
古川さん◆だけど、それは良い経験だった。自分が無意識に描いていた絵を、自分に対して理由付けをする訳やちゃ。所変われば品変わるで、面白い。

仮面から顔へ



人の心理を映す顔
13-住宅と仕事場
 -- 八尾のここを拠点に絵を描かれていますが、なぜ八尾が良いと思われたんですか。
古川さん◆それはやっぱり僕だけでなく皆んな、自分が今住まいしておる所、生れ育った場所とはまったく環境が違う所に、憧れがあるんじゃないかと思う。八尾の町からたった二十分程で、雪が三倍も四倍も多いとは思いもせんかった。「どうせ仕事をするのなら、環境が全く違って車の音が無しのところが良いか」ぐらい。夏に来た時も、鳥の声か風の音しか無かったもん。
 実際に通い始めたら、仕事場というのは家庭の匂いが入ったら駄目では無いかと。「女房の味噌汁は、今日は豆腐かな」とか、家庭の匂いがあったらまずい。水道や便所はあっても、煮炊きは一切しないと決めた。桐谷へは弁当持参が基本です。コンビニで買うとかも絶対しない。女房が弁当を作る時間が無いとなれば、それじゃ飯は八尾まで下りようという具合で、住宅と仕事場は別だという意識がありました。
 それと、通って初めて感じたことですけど、自宅から四〇分くらいですが、四〇分というのは、頭の切り替えに丁度良さそうです。
 -- 無心になれるといったことでしょうか。でもそうやって気持ちがチェンジされるのは、やっぱり違う空間だからですよね。同じ四〇分移動するのでも、街から街ではダメ。
古川さん◆本当にそうなんですよ。それと、自分が一番桐谷を離れられないのは、村の外れに御神木と言われるでかいケヤキの木があります。私はいきなり仕事場には来ず、そこまで行ってケヤキを見てから入ってくる。人間よりも長生きして、見下ろしておる。そういう気持ち。
 町の中で生まれ育った人間やから、ああいう、「神様が見とるぞ」というのは、自分には一番合った場所みたい。お稲荷さんの宮司さんに言わせると、「キツネちゃ、山の神が野の神に伝える時に、使者がキツネながや」と。

冬のアトリエ
14-神様が見ている
 -- 原風景みたいな自然があって、何も汚染されていない、穢されていない神聖な場所という感じなんでしょうか
古川さん◆なんで桐谷かと言われると、うちの女房も「歳いったら、行くのもだんだん気だるくなる。考えたらどうや」と言いますよ。でもそんな先を予測する元気は無いから、「今はここがベターなんや」と答えてる。仕事場やと思うから、不便とか便利という以前に、自分の神経が休まるかどうか。
 それと、たまには昼寝もしたいなと思わんでもないが、ここではしたら駄目だとか、唾を吐いたら駄目だとか、自分で理由づけができるね。
 -- 昼寝をしないとは?
古川さん◆神様が、そこらに隠れとってよ、見とるぞということ。百年も経った木造で、しかも育った人たちの匂いがあるところの味やないかね。野積の先にも休校になった校舎があって、あそこの方が綺麗だから移ったらどうかとも言われたが、絶対嫌や。住民に開放するとか、博物館や美術館を作るとか、手作りの八尾にぴったりの設備のような気が私はするけれどね。
 -- ここも八尾ですが、坂のまちアートは旧町と呼ばれる町家でやっている。古川さんは町家に住んでおられた意識から、坂のまちアートに思い入れがあるんですか。
古川さん◆飛騨古川もキツネのお祭りを十三回やって、坂のまちアートみたいなことをやっておる。飛騨古川で祭りをやりたいと言われた時、「それは是非、夜やられ」と提案した。「戸を外して、見に来た人が腰掛けて、町の人と話が出来るような場を作られ。それならなんぼでも絵を貸してあげる」と言うた。飛騨古川と新潟の高柳のじょんのびの連中も、私の絵を参考に祭りを作った。
 -- 良いですね。空間的には似合いますよ。町中で行うより、本当にキツネが出そうですね。
桐谷の自然に神を感じる
15-民間主導のエネルギー
古川さん◆良いにつけ悪いにつけ、民間と団体との違いですよ。熱の違いちゃある気がするね。一見さんみたいな人にでも、「頼む、頼む」言うて頼んでいく。これが、「三百万円やるから、お前良いがにせえ」となると、エゴが出てくる気がする。
 -- それはありますね。
古川さん◆千年会議や実行委員には、作り手もボランティアの人もおる。ああゆう組み合わせが自然発生的に出てきたのは、桂介さんの力なんだろうけれど、普通はああゆう組織ちゃ出来るもんじゃ無い。やっぱ八尾でないと、というのがあるんじゃないですかね。
 -- 八尾の場合は、母体となっている民間の人のポリシーがうまく伝わっておって、コンセプトがそれぞれ良く理解されている。
16-住民参加
 -- ただ、坂のまちアートは過渡期だという話も出ているみたいですが。
古川さん◆物事は何でも、次の年に向かっては過渡期。町家を提供する人の方が、作り手よりも強いから、変になることは無いと思う。町家が少しずつ変わってるのも、町家の人の力が強いから。仮に僕ら作り手の方が強い意見を出すようになったら、存続は難しいでしょうけれどね。
 場所を提供してもらわんことには成らん展覧会や。そしたら、その人たちにスダレを提供して、花を飾ってもろうたらどうや?と、野の花展のアイディアは雑談の中で出たね。「花を取りに行かんなん」とか言うから、「そういう発想がアートやないか」と。その辺が千年会議の皆さんは非常に柔軟だね。
 -- 野の花展も、住民の皆さんのアートになってきていますよね。
古川さん◆飾り言葉でなく住民参加やと思う。町家の提供はできなくても、花を生けることなら私らもやりますよ、と、典型的に住民の意見の方が強いのが、八尾の場合は表れている。そのうち、「あんたたちがくれる篭とか竹はしょうもない」と、花器も自分で考えるようになった。これがアートの原点やと思いますね。
 -- 僕らもきっかけづくりぐらいに考えています。自分等で飾っていただいて、本物になってきたなと思いますね。
古川さん◆会場として提供される町家があれだけの数あるのは、極端な言い方をすれば、世界でも無いがじゃないかな、と思う。
坂のまちアートの季節
野の花展で町民も参加
017-家にとってのハレの日
 -- 実際、お客さんから、「作品も面白いけど、町家の家も面白い」と言われます。提供してる人にしたら、家にとってのハレの日かもしれませんね。普通、お祭りに座敷を開放してお客様をもてなす、というパターンはあるけれど、それとは別に家を開放する、ハレの日です。
古川さん◆京都の祇園祭りでも、座敷を開放しているのはそんな軒数があるわけじゃない。これだけの家がやるというのは、普通考えられん。見に来た人からすると、全く知りもせん家に上がれる。人の生活を覗くという喜びがある。
 -- 好奇心を満たす場ですね。これは、八尾の人が基本的にウエルカムだからですよね。
古川さん◆お祭りは、本当に平等になるがやちゃ。その時だけは人間の仮面を外せる気がしますね。私は特に、自分の絵のイメージも含めてやけど、こんなに合致したものはないような気がするね。[・・・以上、八尾風便り[三](2002年発行)掲載分より抜粋して抄録

聞き手:高峰博保[グルーヴィ]、田代忠之[八尾町商工会]




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