◆ 大工から、30代半ばで酒造りの道へ 私が酒造りに入ったのは、35歳位からだったかなぁ。それまでは家業の大工をしていました。それが、時代が変わって、みんな「我も我も」と出稼ぎに行くようになると、「社会に出ないと、取り残されるんではないか?」となってきた。そこへ声が掛かったという感じです。
酒蔵は温かい湯から蒸気がバンバン上がって、というイメージが大きかった。一方、大工の仕事は冬はアカギレなど痛いんですよ。「酒屋なら、冬場こんな寒いこと堪えなくて良いだろう」。ほんなら行きましょかと、ひとつふたつ先輩の話を聞きながらやっていったら、段々欲が付いちゃって。
「まあ、これも良いかな」と、長く続けることになりました。今、83歳です。
◆ 杜氏になりたては、死にもの狂いで 最初は滋賀県へ行っていました。9年くらい下働きでやっていて、ある日突然、「杜氏に、どうだろう?」なんて言われまして、「それならもうちょっと、2〜3年前からでも勉強しておけばよかったな」と、それから真剣にやるようになって。10年目で杜氏になった。
呼びかけがあったのは石川県の七尾ですよ。同じ能登ですから近いしねえ、「こりゃ良いな」という甘い感じで入ってみたら、職が職だ。蔵人を9年やったと言っても杜氏職は初めてだから、やってみたら全くの素人です。「うわー、これはえらい所へ来たな」と。死にもの狂いで2〜3年やりました。
慣れてきたら「杜氏というのはこんなんだな」欲目が強くなってきて。それからが病みつきというか。 |
◆ 能登の酒蔵から、加賀の酒蔵へ
七尾に行っていたの時は、春成(はるせい)酒蔵(※建物が石川の登録有形文化財に指定されている)です。今は廃業されてます。当時キリンビールの特約店でこの地方をぜんぶ押さえていましたから、店の商売は相当大きいものでしたよ。
そこに6年おりました。その間に親の病気やらあり、今より遠いところはちょっと、という時に、今の加賀市で「どうだろう」となりまして。遠くなることには抵抗がありましたけど、「ほんなら行きましょうか」と見に行って、入ってみたら、見るもの皆、大型。9倍くらい大きかった。「これは、とてもわしには出来んな」と。
その後、社長、専務ら、奥座敷で、「ひとつお願いします」という話。前の所もまだ断ってないから返事もできないし、規模としてもこんな大きいところで、もし失敗を出したらと、「自信も無い。お断りしたい」と言うと、なお「いや、そんなこと言わないで」と、「この場で決めてくれ」という話になりましてね。 |
◆ 別れの涙の社長の姿は頭に染みついている それで、世話してもらった組合長・三盃幸一杜氏さんに一緒に行ってもらっていましたから、「組合長さんどうしましょう?この話」「いやー、私もできるだけのことするから」と、引き受けざるを得ないようになった。帰ってきて春成さんへお断りに行くと、向こうは組合長を先頭に私が玄関入ってくるのを見て、すぐ、「あー、これはどこかへ行くんだな」と分かったそうです。
当時は、加賀屋の別館が宇出津にあった頃で、「そこへ行きましょう」と社長が言って、一席設けてくれました。あの時の別れが、今でも頭に染みついてね。思い出します。別れということで、社長が涙をぼろぼろ流して、飲んで飲んで。社長の酔っぱらったところなんて、それまで見たことがなかった。自分の後任には、組合長と共に「それは責任持って、できるだけの努力をします」ということで、能登杜氏の中から行ってもらいました。 |
◆ 生産量の大きな蔵を取り仕切る
加賀市では、やること成すこと初めてのような。でも、「来たからには出来るだけのことをしなくては」と、1年2年が3年4年になっちゃった。それで現在に至っています。
その時分で3,600石くらい作ってましたから、県内でも指折り5本の内だったと思いますね。考えてみると、「そんな恐れ入ったこと、よくやってきたな」という感じです。だけどお蔭さんで、これという失敗も無くて。
◆ 醗酵タンクが気になって、吹雪の真夜中に車を飛ばした もちろんそりゃあ色々ありまして、ある冬に途中で用事が出来まして帰ってきたんですよ。帰って寝てるとふっと目が覚めて、「あれ?何番目のタンク、最後に様子を見てこなかったけど、どうだったかな? 考えてみりゃ、最初の仕込みの調子、良くなかったぞ」と頭の感じがしてきた。
気になって、2時間くらいで起きて、夜のうちにだーっとまた戻ったんですよ。それがその夜は吹雪がひどくて前が全然見えなかった。でも車をかっ飛ばして。で、まず蔵の戸を開けて暗い中を飛び込んで、タンクを覗いたら、ブクブクやっとるんですよ。「あー」と思ったね。
あの気持ちは今でも忘れないし、ああいう気持ちがあったればこそ、今でも続いているんだな、という感じがしてますけどね。あとはこれという失敗も無く、今の蔵で33年。杜氏職が39年、蔵人時代の9年間を含めて、酒造りがもう半世紀です。
◆ “そろばん”で管理していた頃から
タンク何本も徐々に進行するのを、同時進行でそれぞれ管理する。それは杜氏の方、皆さんそうだと思いますけどね。計算するにも、量が多いと10何桁、10何桁をそろばんでやって、歩合出したりすると小数点2桁3桁までいく。大変ですよ。そんな時分は計算機も何もありませんから、全部そろばんで仕事をしていました。ただ、量が多かった時は蔵人も多く、杜氏職一本でやっていましたから。「現場に出て何だかんだ」ではなかった。量が多ければ、自分で全ての現場まではやれませんよ。
◆ 蔵人の人数が減り、現場も全て自ら手を通すように 多いときで蔵人は13人。今は社員がいますから、ご飯炊きと私と2人です。人手が必要な時間は分かりますから、「一日にこの時間とこの時間だけ」と、「おーい」なんて呼び集めて来て。何千石と造っていた頃よりも、自分の体をはってする仕事が多いですね。本当に杜氏職がやらなけりゃならない帳面の整理といったものは、時間外でやらなきゃあ。ほんなもんなんですよ。
人数がようけおればね、それぞれにそれなりの役職与えてますから、それを聞き取りしたり現場を見たりで自分の立場があったんですけれど、最近な全てのことを、いちいち自分が手を通しています。まあ、そうやってないと自分も満足できないし。
生産量が少なくなったら、却ってそういう苦労が出てきて、逆転現象だなあという。
◆ 緊張感があり、生涯現役が続けられる仕事 忙しくなったおかげなのか、今年の冬なんか風邪ひいたとか全然ありませんでした。朝起きるのは5時に決めてます。夜寝るのは8時か8時半頃。ちょっと早く寝ますけど、朝起きるまでに2回、3回と蔵に入ったり、それから糀の手入れとかいろいろやってますからね。そんな繰り返しをひと冬ずーっとやってきたんだけど、どこも悪くならなかった。家に帰ってみれば、おっ母あが「風邪ひいた」なんて言うけど、「なんじゃそりゃ」なんて。
この歳になれば、同級生は90%が病院通い。それも歩いてる恰好を見たりすると良くないね、。そうした点では自分は異常なんかね。ただ、「今年で杜氏職を辞めましたよ」いう瞬間に、ガタガタになるんでないかな?なんてことも考えたりして、「そうなったらイカンな」とは思ってます。規則正しい時間の費やし方でしょうか。
それが健康に良いんでしょうかねえ。
◆ 夏場は田んぼと大工仕事、冬の酒蔵とで3つの収入源 夏場は田んぼに出ています。大工仕事もしとったんですが、ここ4〜5年はしたこと無いです。それまでは勤めていて大工をやり、田んぼもやってました。収入源が3つあったことになりますかね。大工仕事ができるから、今年なんか、「杜氏さん、昼休みの時間に屋根直してくれ」って、何回か屋根の雨漏りを直しましたよ。断る訳にもいかんから「やっときますよ」なんて。
◆ 酒造り。時代とともに変わるべき点、変えられない点 能登杜氏の最年長であることを意識せんようにはしてますが、仕込みが終わって蔵を出るときには、今年の“さようなら”が最後かもしれませんよ」と言ってきました。
酒蔵で働くという条件が、ほかの産業から比べるとやはり封建的な面もある。それが今の若い衆には古臭くて、若い衆には付いて来られないのじゃないか。時間的な制約もある。工場や会社のように、「定時が来たから今日の業務は終了だ」とはならない。会社自体が近代化しなきゃ。それはどの会社でもそうだろう。
◆ 能登杜氏の将来へ 能登杜氏の将来はどうなるのか。今、他県の人が「能登杜氏」で頑張っている。純粋な能登杜氏はどれだけおるだろう。今、県外から「能登杜氏に」と入ってくる人は、それなりの学歴があり、専門の勉強もしてきている。現場で見ればやはり、価値観が違い、優遇される。
そこで一番気になるのが、昔から蔵におる、歳のいった人がおれんような状態になるのではないか。能登杜氏の構造が、近いうちに爆発するんではないかということ。心配になる。他の蔵なんかでも見ていると、あちこちの優秀な人ばっかり入って来る。見ていて、これからの蔵で間に合う(=役に立つ)のは、ああいう人たちなんですよ。でも、大学で学んできた基礎力だけに価値があるのでなく、ものづくりの現場で蓄積されたものも重いが、何十年やってきたからといって、あまり期待されない。こういう面を、今の組合でどうやっていくかそれは、従来の組合の枠組みでは対応できない。
◆ 杜氏という仕事への評価と注目を ただ、新しい人が集まってきている蔵は、杜氏に集まっているのも確か。杜氏が有名になって杜氏の名前で酒が売れるようになれば、後継者の問題はもとより、酒を造る人間の実入りもよくなる。ならば杜氏の技量を発信していく活動を行って、もっと評価を高め、実績、魅力、価値を、テレビや新聞やいろんなところで流す作戦をどう立てるか。
杜氏の仕事とは違うことが必要になり、個人個人ではなく総合的にどうするか、求められるようになったのかもしれません。 |
(インタビュー/2011年3月) |
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