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おわら人形 [城岸商店木工所]
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■木でものづくり この仕事についたは昭和32年だったかな。先代のじいさまから、木工の加工場みたいなものを持って製材していた。桐材専門で、箪笥用から薬の箱まで作っていた。越中売薬の広貫堂の六神丸の箱などは、昭和の11年ぐらいまで、ほとんどうちから行っていた。 工房でものづくりをしていると、いろんなことを尋ねられる。特におわらのことが多いが、なぜ八尾では石垣の上に家を建てたのかなども話題になる。 ■観光につながる商売 父は川崎順二さんの弟子として参加し、若柳吉三郎さんにも指導を受けたりした。昭和18年、小学校3年の時に父に招集が掛かり、ジャワに行った。親父が帰ってきたのは昭和22年だった。 医者である川崎先生は、「君の商売は良い商売だが、私の商売は面白くない商売だ」と言っていた。やがて観光につながるからという意味だった。そして、「他所の地域の者が商標を取って利益をあげるのは困るから、今のうちにおわらの商標登録を取っておけ」とのアドバイスもいただいた。履物と人形で取ってある。 ■陛下の前でおわらを披露 川崎さんが富山中学を出て、金沢の医学専門学校に行かれていた頃、おわらの話をする医学生として有名になり、話を聞きたいという人が出てきた。その際も、「おわらの話は八尾でしなくては」と、いろんな文化人を八尾に案内して来られた。親父からそんな話を聞いていたので、川崎先生の指導を受けたいと、お世話になるようになった。 昭和23年ぐらいから、いろんなおわらの講習に出た。八尾高校時代には電気ビルで踊ったり、天皇陛下の前で踊ったこともあった。昭和33年の富山国体の時も、マスゲームでおわらを披露した。 ■日本を代表する民謡を目指して 昭和36年から、私もおわらの世話をするようになった。川崎順二さんの鞄持ちをして、県庁にもよく行った。当時の高辻知事は、「郷土芸能として八尾のおわらを育てないといけない」と言われ、毎年補助をいただけるようになった。 川崎順二さんも、「おわらを富山県の代表民謡に、将来は日本を代表する民謡にしないといけない」と言われ、保存会の名前を、富山県民謡おわら保存会に変えた。県内に支部も設けた。川崎さんは文化人を最初に集め、おわらの評価を高くしようとした。その上で芸能関係者を集めた。 川崎先生は、全日本民舞踊連盟を設立し、初代会長も受けられた。副会長は佐渡おけさと阿波踊りの方の2名、事務局長は茨城いそ節の方。その4人が組んで、全国の民謡を指導して回った。川崎さんは、「それぞれの民謡はそれぞれの地で行うべきである」と言われていた。 ■おわらのために芸を盗みに行く 川崎さんは、酒を愛し、廓に通っていた。当時八尾には芸者が100人いて、若い者たちにも、「芸者に芸を習いに行け」と言われていた。 教えて欲しいと言っても教えてくれないから、遊びに行ってお酒を飲みながら舞踊を見て、手の打ち方、糸の弾き方などの「芸を盗んでこい」ということだった。そのお金は出すからと言われていた。最初から芸者さんのところで飲むと高くつくから、親父たちは、午後3時過ぎになると集まって飲み始め、5時になってから芸者さんのところに行った。 ■おわら発祥の地の石碑 川崎先生の鞄持ちは、昭和36年から46年に亡くなられるまでしていた。 44年の暮れには、「おわらはそのうち有名になり、どこででも行われるようになる。“おわら発祥の地”の碑を作りたい」と言われていた。当時川崎先生は72歳だったが、医者であるがゆえに、自分の生命が分かっていたのではないか。今、発祥の地の碑はおわら資料館の前にある。 ■多くの人の力でおわらの発展を おわらの世話をする人は、誰でも良いということはない。これだけおわらが有名になり、披露の機会も多くなると、来賓をもてなすのに相応しい人でないといけない。そこで、今の福島順二さんに会長をお願いした。川崎順二さんもおわら保存会長であり、初代の観光協会長を兼任されていた。 おわらにはいろんな人が関わることが大事。踊り手や地方(じかた)などの演技者だけではダメ。 もうすぐ74歳になる。肩書きが無いお蔭で、自由に発言している。昭和50年に、第10回国際民俗芸能祭で、ユーゴスラビアに行ったことが一番の思い出。 ■お店をゆっくり整備していきたい 川崎先生は、おわらの担い手を育成するために、書を与えていた。そうした貴重な書もあるので、見ていただけるようにしたいと考えている。店も、3〜5年かかりで整備していきたい。工房の前の裏通りはいろんな人が通る。全国からおわらを見に来る人たちの着替え場所の意味もある。 ■土地に根付いたものづくり この地域を活かすためには、その地に根付いたものを身につけていくべき。手に職を持っている人、その土地にちなんだものを育てていくようにしたい。 今、木でおわらの人形を作っているが、すぐ裏手の城ケ山の木を材料にし、八尾で生まれ育った人間の手で作っている。じいさまは桐の木の植樹もしていた。 ■八尾の職人しごと 木の人形のほかに、「布を着たものはないか」とお客様から言われたので、着物を着たものを作った。和紙どころだから、和紙で作った人形にもリクエストがあり、それは吉田桂介さんにお願いした。 下駄は、桐下駄が基本。注文されるのは、お寺の奥さんたちが多い。歯のつけかえを注文するのは、多くは芸妓さんや寿司屋さんに限られているが、設備があるので出来る。しかし、今は箪笥も減り、下駄も履かなくなった。 八尾には、ものを作る人がたくさんいるので、「ものづくりが必要な場合は八尾に言ってくれ」と言っている。全国的には職人は減っているが、八尾にはまだいる。 |
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