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[濱鮨]
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■代々八尾でご商売 元は、八尾の今町の出身です。親父は紳士服のオーダーメイド、じいちゃんは屋根のとんとん葺き屋さんでした。昔はここらも石置きの屋根があって、杉板に栗の木で石を置いて支えていた。それが、私が寿司屋になった訳ですから、うちは三代ちがう商売をしています。子どもの頃は、親父がずっと家に座っておるのがイヤだったんだけど、自分は立つ商売にはなったものの、やっぱりずっと家におるんやね。 ■大阪の有名店で修業 大阪に丁稚に行って、結局大阪には18年ほどいたかな。 丁稚に行ったのは、集団就職の手前の時期。入った店は、戦後に始められた寿司店「濱鮨」。麦を食ろうとる時代から、あっという間に昭和30年代になり、高度経済成長が来ましたでしょ。いろんな会社がどんどん大きく成長していった時代です。そんな中で、明けても暮れても自転車ばっかりの毎日でした。出前の配達ですね。 ■経済成長を目の当たりに 夜11時に店が閉まって、朝は8時前に起き、飯は5分で食え、という世界です。当時は好景気で、どこでも残業が多かった。会社から、「奥の現場に何人おるから、寿司何人前持ってきてくれ」とか、「これから石炭を貨車に何台積まないといかんから、巻き寿司を一気に何百持ってきてくれ」といった具合。それくらいあの時代は目茶目茶景気が良かった。大卒の会社見学全員に寿司を振舞ったような時代です。 ■活気に満ち溢れた時代 オリンピックの頃には、「濱鮨どこや」って聞けば分かるくらいの店になってました。店には行列もできると有名でした。私は相変わらず、寿司屋に来たのか自転車の運搬係に来たのか分からない生活です。オリンピック前の正月には、餅を焼いてもらってポケットに入れて、3日間配達の自転車に乗りっぱなし。 休みの日だって、朝からの休みは無い。出前してきて皿を洗って、夕方4時くらいからが休み。そうすると、店の奥さんが内緒で500円ずつ呉れるんです。梅新まで市電で10円で行けた時代です。その500円で映画見たり蕎麦を食べたり。給料が1000円で、月2回の休みに500円ずつもらうって、面白い時代ですね。食べるものは食べさせてもらえるし、辛抱すれば自分で店を出せるという気持ちで頑張れる。僕らには、あんな時代は一番楽しかった時代ですよ。その後にオイルショックが来たんです。 ■初代若乃花の来店騒動 そう言えば、ちょうど僕が行った年に、初代若乃花が店に来たんですよ。ある社長さんが、「今日連れてくるから」「はい、分かりました」と、本当にその日に連れてきた。それもびっくりしたけれど、誰にも言ってなかったのにあの広い天下通りが見物人でいっぱいになって、電車も動かない騒ぎになった。店の向かいの警察署が、「何があったんや」と。 今考えれば、店の名前を広めるために店の親父がひと頑張りしたんでしょうね。 ■昼間からお寿司を気軽に 八尾に帰ってきて、もう30年が過ぎました最近は、10年ほど前に比べても配達がぐっと無くなりましたね。それでも風の盆以外の時期にも八尾にお客さんが来られるようになりつつあって、金・土・日曜の昼には、おわらの下見だとか写真を撮りに来られる二人組やグループ連れをお見かけします。団塊の世代の方が多いでしょうか。 昼のランチは、もう大サービスでやってます。「昼間でもこういう風に楽しめるんやったら」と思ってもらえれば。 ■時季限定の山菜チラシ 坂のまちアートの時は、「山菜チラシ」というのをやったことがあります。あっという間に売り切れました。寿司ネタの上に山菜を10何種類乗せたもの。自分で採ってきた山菜だからできることです。定番メニューにするのは難しいですが、その時期にたまたま健康づくりのために採りに行ったと思っています。 ■店内の山野草写真は奥様が撮影 写真は家内の趣味です。最近は昔ほど山へ行かなくなりましたが、以前は山野草の写真を撮るために山へよく行きました。山野草の話はそりゃあよく知ってる。 店の花も山辺のものをよく飾ってます。おわら風の盆の時期は、早起きして安房峠の辺りまで行きます。しなだれないように8時頃までに戻ってきたいから、朝4時頃に出発して取りに行くんです。 ■馬刺しや熊鍋もどうぞ 熊汁は、基本的に通年あります。八尾には猟友会があるんです。熊鍋は美味しいですよ。牛ってにおいがするけど、熊はそんなにおいが全然無いから、熊鍋食べたらすき焼きなんか食べられん。お湯で炊くと、脂はもちろん浮くけど、溶けて無くなってしまう。どんぐりとかたくさん食べた熊は、香ばしい味がします。 もちろん富山の自慢はやっぱり新鮮な魚です。その時季のものをいろいろ聞いてみてください。 |
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