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2003.07.23Update |
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―― こちらの造り酒屋さんは、いつ頃から。 ご当主◆一八〇八年の文化年間と聞いております。 ―― 代々、政治的な活動をされていたんですね。 ご当主◆まず道寧さんが、明治時代の県会議員。私の四代前になります。 お母さん◆富山の県議会議事録の一番最初に名前が載っておるようです。その下の代の専次さんは県会議員と町長。 ご当主◆父の孝久が町会議員の二期目の時に、町の合同合併をやって八尾町ができ、二十五、六歳の一番若い父が初代の町会議長になり、そこから県会で六期。 お母さん◆合併には随分抵抗があって、説得の際に「一杯飲まれ」と。酒が貴重な頃で、「こんなに飲ませて、あんた合併して何か良いことあんがか?」言われるくらい、毎日毎日色んな人に振る舞っていました。 ご当主◆昔は、政治と文化は一体だったようですね。 お母さん◆実は前からいろんなビール会社が、「確かおたくの先祖が、まだビールが定着しない明治時代に、先駆けて造られた筈だから資料がないか」と、一生懸命来られました。 ―― 日本におけるビールの歴史を調べようということですね。 お母さん◆「これという証拠もないし、私は分からない」とお返事してたんです。 ご当主◆口伝えではビールのことを聞いていたんですが、資料も何もない。何回も戦災に遭ってますし。その後、週刊ダイヤモンドの副編集長だった平野さんという方が「八尾のことを知りたい」といらして、いろんな話を母としとりました。そしたら先月「明治二十二年にビールと赤葡萄酒を造ったよ、という資料が出てきました。ご存じですか」と言うて持ってこられたんです。 お母さん◆販売ルートにのせようとしていたからには、それなりに製品として出来ていたのでないか、と。 ご当主◆技術的な問題もあるのに、ワインとビールみたいな先端なことが、どうして八尾の片田舎でやれたんか、今となっては分かりません。 ―― 杜氏さんはどこから。 ご当主◆能登杜氏さんです。富山県は関東文化圏と関西文化圏のちょうど交叉地点で、杜氏も越後杜氏と能登杜氏と大体半々混じってますね。 ―― 杜氏さんも高齢化の時代、若い後継者の育成が言われていると思うんですが。 ご当主◆今までは主人が設計図を書いて、それを造るのが蔵人だったんです。これからの時代は、自分で酒を造っていかなきゃあダメだよ、と息子に口酸っぱく話をしとるんです。 これからは大量生産はできません。自分のところで売る分だけの酒を自分で造り、人に納得していただける説明のできる酒でないと、受け入れられない。八尾のまちで、二百年近くこれを家業とさせていただいとる私どもの生き方じゃないかな、と家中で話をしとるんです。
―― ラベルに林秋路さんの絵を使ってらっしゃるんですね。秋路さんはいろんな酒屋で飲んだ酒を、自分で黒板に書き付けていらっしゃったと聞いています。 ご当主◆秋路さん、相当のんべえだったらしいですね。 お母さん◆うちは昔、「旭山」と「玉旭」と二銘柄造っていて、「おわらの里」のラベルにさせていただいた秋路さんの絵は、その「旭山」の看板が出た昔の格子戸の家そのまんまです。 ―― 看板は昔からだったんですか。 ご当主◆有名な方なんだそうですよ。 お母さん◆アカマの表具屋さんが、「どうしてこんな有名な方の書かれたものがあるがんけ」ってびっくりされていました。 ご当主◆十五年程前に吟醸を手掛けた時には、高橋治先生に「うちが長年研究してきました一番良い酒に『風の盆恋唄』のお名前をいただきたい」とお願いをしました。あれはお断りはしなくても良いんですが、快く了解いただきました。 ―― こちらの建物は江戸から? ご当主◆江戸時代から残っているのは下蔵だけです。父に甲斐性がありすぎて、全部直してしまって。ただ、橡(トチ)の木の一枚ものや、間口の上がり框の檜(ヒノキ)などは、前の家のを使っています。 お母さん◆今なら文化財になるくらいの家でした。今の店のカウンターも戸の一枚一枚も、そのときの欅(ケヤキ)だから、すっごく重く締まっている。全部それでやったので、大変だったと思います。「こんな建具屋泣かせの仕事は、いくら金もろうても合わん。何枚鉋(カンナ)の歯が傷んだか分からん」と言われました。 ―― 横に奥までの通路がどーんとある構造は、造り酒屋のものなんでしょうか。 ご当主◆八尾の町屋の造りですね。中庭があって、周りがあって。 ―― 坂のまちアートの時も、「アートも勿論、町家の造りも面白い。二つ相まって素晴らしい」と言われました。 ご当主◆坂のまちアートには最初から参加し、家を綺麗にして見ていただく喜びを、手前どもも含めて町の人たちが自覚してきたと思います。うちも間口の狭い昔の町家で、前から後ろまで一〇〇メートルぐらいあるんですね。それを、手前どもはあんまり思ってなくても、偉そうに言えば一つの文化なのかなと。 ―― 通年で見せていただけると、八尾の新しい楽しみになるかなと思うんですが。 ご当主◆徐々に徐々に、店先から二十メートルくらい来ました。手前どもの場合は、商売の店先と生活空間、それから奥の酒造の空間に区別がなく、そこをどう整理するか。おわらの時にはお客さんを座敷にお上げするんですが、皆さんにそうはできない。 大事なのは気持ちよく帰っていただく。そうすると、手前どもも「来ていただいて良かったね」と思います。「ああ、古い家だね」とか「長いね」と言っていただくのも、やっぱり非常に嬉しいことです。 八尾の文化が栄えた原因も、先祖に気持ちがあったからでしょう。でないと、こんな山あいの町が歴史をもてる訳はない。そういう意味で、生かされとる。できるできんは別に、おもてなしの気持ちは持ち続けて、伝えていきたいと思います。[・・・以上、八尾風便り[三](2002年発行)掲載分より抜粋して抄録] 聞き手:高峰博保[グルーヴィ] |
↑ビール発売当時の 広告記事が発見された
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